浦安駅付近を散策してみた!
こんにちは!
気学鑑定士の『知世」です。
いつもありがとうございます。
日盤の吉取りで
頻繁に利用させて頂いている
浦安駅周辺ですが、
灯台下暗し、と言うか
散策をした事はありませんでした。
浦安というと
ディズニーランドを思い浮かべる方が
ほとんどだと思いますが
あちらは埋め立てで…
歴史があるのは
東京メトロ、東西線の
『浦安駅付近』になります。
明治22年
堀江、猫実、当代島の
三村が合併して『浦安村』になり、
近くを流れる『境川』と共に
発展していきました。
この川は海への出入り口であり
その水もまた
飲料水、生活用水として
重要な資源だったそうです。
海の神様を祀る『清瀧神社』があります。
この神社の参道に当たる細い道が
かつての浦安の中心だった場所です。
それが今のフラワー通りで
(実は今は閑散としています)
『男はつらいよ』や『野ブタ。をプロデュース』などの
ロケ地として使われたのは結構有名な話です。
また、ブラタモリや正直さんぽ他
幾つもの番組でも紹介されました。
そんなフラワー通りに
『今でも残る文化財住宅がある』
という事なので見学させて貰ってきました。
…
神社のある宮前通りからフラワー通りへ
最初にあったのは『旧宇田川家』です。
お客さんの出入り口です。
屈まないと入れないくらい狭いです。
朝のテレビ小説『あさが来た』を
思い出してしまいました。
旦那さま(玉木宏さん)が
こんな感じのところから
よく出かけてませんでしたか?
巾着をブンブン回しながら…
この入り口から入ると
畳敷きの呉服屋さんですね!
こんな感じに…
店舗部分は
この畳敷き以外は板敷きと土間になっています。
横から撮るとこんな感じです。
右側には米つき場がありました。
ここ宇田川家は
明治2年の建築であり
江戸時代中期に名主の家から分家した家柄です。
屋号を『藤村屋』と称していて
米屋、油屋、雑貨屋、呉服屋などを営み
商家として使われていました。
大正3年に店の1部を改造され
浦安郵便局が開かれました。
大戦後には宇田川医院の
診療所として使われ地域の人々に貢献してきた、
との事です。
板の間の奥は住宅部分です。
庭に面して小さな窓があります。
『臆病窓』という名前だそうで、
夜間の来客や診療に
訪れた人を確認するのだそうです。
柱と梁の交差する所にあるのは
『魔除けの釘隠し』だそうです。
中の間と呼ばれる
店舗からすぐの部屋に
この魔除けの釘隠しが4つ
東西南北に配置されていました。
この家は昭和57年に
市の有形文化財として指定され
(寄贈される前まで使っていたそうです)
昭和59年から公開されています。
…
2軒目に行きます。
フラワー通りを
奥の方に向かって歩いて行くと
こんな看板があります。
ここ(細い道)を左に入って行くと
茅葺屋根の『旧大塚家』があります。
こちらの住宅は
江戸時代末期の建築と推定されています。
大塚家は
漁業と農業を営み
浦安では比較的
立派な家なのだ、という事です。
昔の漁師さんの家は
掘っ建て小屋みたいな感じの
家が多かったらしいです。
浦安の民家は
境川に近い方に土間
遠い方に客座敷が作られている事が
大きな特徴で
境川を挟んで
反対側の家は
対照的な形になっていました。
…と言う訳で
玄関の手前に出入り口があり
そこからから入ると、土間があります。
土間や板の間では
漁具の修理を行うなど
生活する上での
様々な作業が行われていたそうです。
土間から見た小屋組です。
茅葺き屋根は
放って置くと茅の中に虫が巣食い
茅を痛めてしまいます。
またその虫を鳥が突きに来て
茅を散らかす恐れがあるそうです。
虫をやっつける為には
薪の煙で屋根の内側を
燻製する必要があります。
『今でもこのカマドは使用可能で
たまに煮炊きを行っているんです』
と教えて頂きました。
板の間に立派な神棚と仏壇がありました。
浦安の街を歩いていると
庭に鳥居がある家をよく見かけます。
あれは
屋敷稲荷と言うのだそうです。
こちらが玄関です。お客さん用ですね!
入ると正面が座敷になります。
家の中にあるトイレです。
今では当たり前ですが
この時代
トイレは外にあるのが一般的です。
庭にもトイレがあるので
これはお客様用でしょうかね?
屋根裏部屋があります。
水害の時は
この屋根裏に避難したり
家財道具を上げるなどして
被害を最小限にしたそうです。